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あの頃

友人のブログを見て、あの頃を思い出していました。

その日の朝
小学生だった長男は、学校行事のスキー旅行に出かける用意をしていました。
家族全員が早朝から起きて、一緒に身支度を手伝っている最中だったのです。

1995年1月17日 あれから13年たったのですね。





私の家は、大阪でもやや北よりです。
昔はあたり一面湿原だった場所なので、地盤もゆるい土地です。
そして、昭和40年代に建築された古い木造家屋です。

ドーン!と突き上げられて驚いた後、今度は壁に叩きつけられました。
一回揺れる毎に、部屋の四角い空間がねじれているのがわかります。
幸い家屋の倒壊には至りませんでしたが、もう少し西に住んでいたらと思うとぞっとします。
揺れがおさまった時、まず窓を全開にして余震時に備えます。
TVをつけると、映像は映らずに音声だけで、アナウンサーが必死になにかを訴えています。

私と次男が家に残り、家内は長男を連れて学校まで行きましたが、当然スキーは中止で自宅へ戻ってきました。
何度も余震が繰り返しています。
徒歩で会社まで行くと、部品倉庫の中が部品の海になっていました。

私は当時レントゲン機器の開発製造の会社におりました。
徐々に情報が整理されて、神戸方面の惨状がわかって来ました。
ウチがOEMで製品を供給している大手外資系医療機器メーカーが、神戸方面の医療機器復旧の為に人材が欲しいということで、私を指名してきました。
(後でわかったのですが、その会社で一緒に仕事をした事がある方が一名亡くなっていました)

交通規制すらまだまともに機能していない神戸へ
冗談抜きで、倒壊した阪神高速の一部を潜ったりしながら
倒壊した建物を踏み越えないと通過できなかったり
街角に犠牲者の亡骸がごろごろ目に付いたり
依然として火災は鎮火されず
信号もすべて機能していません。
それでも進まなければなりません。
皆さんがテレビで見た風景は、比較的マシな部分です。
とても・・とてもあれを電波にのせる事などできません。

数日で交通規制が厳しくなりました。
緊急車両の認定を頂く為に、大阪のとある警察署へ出向いた時の事
「神戸へ行く目的は?」
「医療機器の復旧です」
「許可できません」
「何故!!!」
「許可できるのは、食料運搬のみです」
「大勢の方がケガされていて、治療の為に必要な機器が壊れているんですよ!」
「おっしゃるとおりです」
「許可をください」
「食料運搬以外は許可できないのです」
押し問答の末、食料を運搬するという名目の書面をでっちあげて許可をもらいました。

当時の神戸を知る者として、一言
神戸を救った最大の功労者は「ローソン」じゃないかと思います。
ほとんどすべての店が営業できない状況下で、ローソンは営業を続けました。
窓も無く建物もひび割れている状態でも、最低限の品物に絞って物資を各店舗に供給して営業を続けていました。
大変な赤字だっただろうと思います。
ヘリによる空輸と陸送(常時大渋滞)にかかったコストは、パンや水だけの売り上げで埋め合わせる事など到底不可能でしょう。

連日、早朝真っ暗なうちに出発して日付が変わるまで戻って来れない日々が続きました。
電気が来た!水道が出た!
そんな喜ぶ顔もたくさん見ました。
倒壊した建物も、徐々に片付けられていきました。

あの頃の記憶は、今思えばなにかの物語のようでもあります。

  by tak_a86 | 2008-01-17 20:50 | その他 | Comments(8)

Commented by hamada at 2008-01-17 22:52 x
もう13年とは...嘘のような気がします。 私は当時は堺にある会社の寮にすんでました。そこでも目がさめるくらい揺れたので、慌ててTVをつけました。が、大した情報はなく、再度眠ってしまいました。
次に、7時過ぎに再度TVをつけると、神戸の大被害が映し出されて、驚愕したことを憶えています。 
1週間後に、長田まで物資を運んだのですが、高速道路は崩壊、あたり一面焼け野原で、火事の焼け跡のにおいがまだぷんぷんしてました。 

たった13年まえのでき事なのに、もう忘れかけていますよね。
Commented by kado at 2008-01-17 23:46 x
確か朝6時前位でしたか...飛び起きたことを覚えています。
あれから13年。自分も含めた周りの状況は変化を続けていますが、
風化させてしまってはいけないものとは思っています。
ただ、13年。
やっぱり部分部分しか覚えていない自分がいるのも事実です。
Commented by tak_a86 at 2008-01-17 23:47
>hamadaさん
長田と灘の被害が酷かったです。
でも、そこに住んでいるわけではない私に対して
「飲み物も食べ物も買われへんから大変やろ」
って言いながら、食べ物や飲み物を出してきはるんですよ。
もうね・・・
Commented by tak_a86 at 2008-01-17 23:53
>kadoさん
今神戸に行っても、その時の傷跡をみつける事は困難です。
でも、住宅街を通っていてふと・・周囲に古い家屋が一軒も無い地区とかがあります。
そう、風化させてはいけない記憶だと思います。
Commented by とっちぃ at 2008-01-18 00:19 x
たけちゃん、えらい目みはったんですねぇ(汗
わたしも当時は、神戸のイナカのほうに住んでて
三宮の支社勤めでした(>_<)
家はさほど被害大きくなかったので出勤しようとしたんですが、
バイパス道の上から炎の上がる長田が見えたときは
心臓が凍り付きました。すごいショックでした。

バイパスなので引き返すこともできず、
ひとまず三宮まで行きましたが、、、
ゆっくりと炎に包まれていくビル、パニック状態の群衆、
本当に地獄に来てしまったと思いました。

毎年、この日の新聞には、送り火みたいな灯籠や
それを覗き込む若い人の顔のアップなど
とても美しい写真が一面に載るんですけど、
どうしても地元民としては違和感を感じます。
震災ってそんなきれいなもんじゃねーよ、って思っちゃいますね。

‥‥っと、超長文コメすいません(汗
Commented by のぶ at 2008-01-18 00:22 x
突然 タンスの扉が開いたり閉まったり、蛍光灯がグルグルまわりこんな地震生まれて初めて体験し これは俺の家の下が震源地か?TVをつけると 神戸震度6 大阪震度4 なんと~えらいこっちゃ~
嫁と子供たちが加古川の実家に帰っとる すぐ電話通じた 「お父さん」無事やけど家の中がむちゃくちゃやねん!よっしゃ~無事ならええ
それから3時間ほどしてTVで阪神高速の横倒し大写し 
パンしか食べない下の子食べるもん売ってない!
しかし 道は不通 電車もダメということが時間が経つにつれわかってきた 人々のおかげで しばらくしてなんとか加古川に行ける電車が再開した 大阪から加古川まで8時間かかったけど到着できた!
古い家やったので 半壊してた
帰りの電車で家の子供達に席を譲っていただいた御人 ほんとうに「ありがとうございました」8時間もかかるのに・・・
ローソン 中内さんのワンマンがほんと良い作用した!すばらしい功績と思います。
俺らは 揺れた瞬間 終わりやけど 被災者は 揺れた瞬間からいろいろな事の始まりやったんやな・・・
パンしか食べなかった子供も15歳になりました


 

Commented by tak_a86 at 2008-01-18 01:04
>とっちぃさん
あの時は大変でしたね。
あのバイパスはまるっきり無事だったので、当時渋滞の迂回に大活躍しました。
無料開放されましたしね。

そう・・きれいなもんじゃねーよ
あの時の記憶のある人にとって、そんなうわべの報道なんていらないんです。
Commented by tak_a86 at 2008-01-18 01:11
>のぶさん
大変やったね
家族と離れてた時やし、ほんまにじっとしてられへんかったやろ
もう二度と、あんな事はごめんやね
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